『ノーブレス・アブリージュは幻想だ』(時事評論) 2000.3.17 −人は生まれながらにして平等を公理に− 最近の行政機関の不祥事、取り分け高級官僚の職務怠慢或いは違法行為事案において、 少数意見ではあるが「選良」(但し代議士は除く)としてのキャリアの必要性を唱える 人達がいる。 その意見の一つは、叩き上げのノンキャリアは地域の利害に深く係わり過ぎるため大所 高所からの判断が出来にくい。これに対し、キャリアは地域の柵がないので自由な発想 ができると言うものである。 これは明らかに特権階級が必要だと言っているのである。その目的は何か、それが 『ノーブレス・アブリージュ』であることは、次に紹介する論旨等から推察される。 英和辞書によれば、noblesse oblige;高い身分に伴う(徳義上の)義務。 (1)1997.2.12付け産経新聞朝刊、正論欄における桜田淳氏の論旨。 「厚生省の岡光次官の汚職問題から鑑みるに、戦後日本には「選良」がいなくなった。 否、いなくなったのではなく、戦後の民主主義が単なる平準化、凡庸化を正当化する ため、これらの「選良」を扼殺してきたのである。具体的に言えば、華族制度を始め として、帝国大学、陸軍士官学校、海軍兵学校、高等師範学校と言った「選良」の 枠組みを壊してきた。 諸外国を見ると、フランスではあのフランス革命を実行した国にも係わらず、フラン ス社会の運営は或る特殊な限定された高等教育機関の卒業生に委ねられている。 米国においても、アイビー・リーグと称される名門大学の他にもローズ・スカラーシ ップ、ホワイトハウス・フェローと言った「選良」の選抜と養成の枠組みが幾重にも 作られている。 以上のことから、日本も社会制度としての「貴族」或いは「選良」の再生を構想する 段階に入っているのではなかろうか。」 (2)井上太郎著:大原総一郎;中公文庫、1998.9における粕谷一希氏の解説抜粋 「−−−−しかし、大原総一郎のような人格は一朝にして出来るものではないことを、 この書物を読み終えてしみじみと感ずる。大原家は江戸期以前からつづいた素封家で あり、−−−− 現代人はマルクスから始まった嫉妬や怨念を捨てるべきだと思う。民間の資産階級の 識者の文化活動と官僚のやる文化活動を比べてみるがよい。もちろん、官僚の中にも 趣味のある見識ある知識人はいる。しかし官僚であるが故に、生涯にわたる責任ある 行為や決断ができない。文化活動だけではない。福祉の次元でも、国家はむしろ大幅 に民間や地域の自治体に任せるべきであろう。 有産階級の消滅が、今日、日本にすぐれたエリート、指導者がいない原因のひとつに なっていると思う。−−−−」 このような考え方が未だ少数意見であるのは、これまでの長い歴史が王侯、貴族等の特 権階級から、社会の構成員である個人々の権利を取り戻すためのものであったと考えれ ば当然のことである。 かかる特権階級の所謂、『ノーブレス・アブリージュ』が不確かなものであり、個人の 資質に大きく依存することは歴史が証明している。『ノーブレス・アブリージュ』は特 権階級の隠れ蓑に過ぎず、これが社会改革の手段となると考えるのは幻想に過ぎない。 百歩譲って、例え特権階級の再生が戦後の日本の今日の停滞を打破したとしても、その ために失うものは重く、しかも得られた成果は永続しないであろう。何故ならば、既に これだけ発展した社会における問題は、一握りのエリートの指導や処方で解決するもの ではなく、多くの人の英知と参加を得なければならないと考えるからである。 多くの人の参加が社会の単なる平準化、凡庸化を招いているとしても、個人々の権利が 尊重されなければならず、その上でそれら欠陥を是正する方策を検討すべきである。 このような社会では、単なる自己主張者、扇動者或いは大衆受けする者が跋扈する危険 があるが、その解決を特権階級に委ねることなく、非能率的であるにせよ大衆主権の下 で解決策を見い出していかなければならない。 特権階級を再生したとしても改革にならないことは先に述べた通りである。 私は解決策をここに提示できないけれども、上記の少数意見に潜む危険を指摘し歴史を 逆行する愚を犯さず、社会に不幸を齎すことがないように願っている。 今後の社会は、全ての人の権利が等しく尊重される「人は生まれながらにして平等」 を公理とするものでなければならないと思う。この公理に反する定理や公式を導いても それらは真ではない。 以上