『乗るべき列車は分かっているが、満たされることはない』 2003.01.01 私は日々感謝し、謙虚な気持ちで粘り強く頑張ることを旨としてやってきた。 それでも、不安や虚しさから完全に免れることはない。私の心を満たしたのは、 世俗的な事のみであった。あれが出来た、あれが評価された、あの時は没頭出来 た、その時或いはそれを思う時心が満たされたような気がする。 私には人生の目的など皆目分からない。例えそれを自ら設定したとて、或いは他 人から言われたとて懐疑的にならざるを得ない。第一、それが達成できたら後は どうするのか、そこで永遠の命が与えられるとでも言うのであろうか。 死に至るまで天国願望を維持する理性は持っていない。理性を否定することは自 分を無くすることだと思っている。この願望を欠くと、宗教の力は激減するよう に思われる。そこに残されているのは諦観ではなかろうか。 しかし、人生には絶望の淵に落とされるようなこともあろう。その時にも諦観で きるのであろうか。私には全く自信がないし、その境地に至る修行をしたいとも 思わない。だから、成るようにしかならないと諦めるしかあるまい。それも中々 難しそうなので、その時は「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす 自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は一日だけで十分である。」等々の キリストの教えを信じてやっていこう。 天国願望はないが、この道、この列車に乗るしかないと思っている。 常に心が満たされている状態なんて望み得ないが、少しでもそれが得られるよう、 この世で今まで通り謙虚に忍耐強くやっていこう。その上、将来に備えて希望を 失わないよう知恵を蓄えたいと願っている。 以上