『T市のMさん』         2017.03.02

      



 私はMさんのことを思い出すといつも落着かない奇妙な気持ちになっていた。

その日私は人間ドックに入り、その帰り道T市の書店を覗いてから夕食をとるた

め駅ビルのとんかつ屋に入った。まだ夕食には早すぎる時間で店内には数人の客

しかいなかった。私が席につこうとすると、隣りのテーブルで一人ビールを飲ん

でいた男が声をかけてきた。「神田の書泉か。よく行くのか。」と言った。私が

持っていた手提げのビニール袋にはSHOSENのロゴタイプが入っていた。そ

れがT市のMさんである。

細身だが恰幅が良く、私よりやや年上のように見える。三つ揃えの上着を脱いで、

落着いた様子で話しかけてくる。私の職業や住まいなど根掘り葉掘り尋ねるので

随分警戒もしたが、彼自身の話はそれがほらだとしても自分が歩み或いは歩みた

いと望んだ道に良く似ているのでつい凡そのことは答えてしまった。

彼は古ぼけた革の名刺入れから手垢のついた数々の著名人の名刺を取りだし、こ

れは元首相、国会議員、大企業の常務などなどと説明し、元の名刺入れに丁寧に

納める。また、これも使い古したような論文集を取りだし、東京大学工学博士M

氏の論文だと言う。勿論M氏とは彼自身のことである。

かくの如く己の身について話したので、今度は私の名刺を呉れと言われ渡した。

私も彼の名刺を呉れるよう何度も催促したが、先程見せた論文などが名刺代わり

である。疑念があればこれをコピーでもするか、そこに問い合わせて呉れれば良

いと言う。さらに言うと持っていないと開き直る。小心者の私は悪用されはしな

いかと心配になった。私は食事が済むと直ぐ店を出た。

彼の話した要点を箇条書きに纏めると次のようになる。

(1)生まれも育ちもT市X町で、そこに現在も千坪を超える土地と邸宅を有す

   る当主である。彼の祖父は町長から県議にもなった町の名士であった。し

   かし、田舎の芸者に梅毒をうつされ最後は精神病院で迎えた。

(2)東京の某大学の応用物理学科を卒業し、東大大学院に進みそこで博士号を

   取得した。博士論文は衛星放送に関するものである。

(3)大学院卒業後は某テレビ局に入社。現在も一応そこに在籍となっている。

(4)大阪万博のあった年に京都でIEEEの学会があり、論文発表のため出席

   した。その際、隣席の米国人博士と懇意になり彼を京都の料亭に招待した。

   翌年、自分が米国カリフォルニア州で開かれた学会に出席した際は空港か

   ら彼に電話して迎えに来て貰った。   

(5)現在は政治関係の仕事をしている。今も地主であり昼間からこうやって酒

   を飲んでいても良い身分である。以前大手電機メーカーから研究所の部長

   職にならないかと誘われたこともある。学会、政界にも多数の知己がある。

(6)親戚に超能力者がいてそれを伝授されている。だから、私がとんかつ屋の

   店先を覗いている時、店内から彼は超能力を作用させ私を店に引き込んだ

   のだと言う。

(7)T市では有名人である。X町の飲み屋Yにこれを持つて行けば彼のつけで

   五千円までなら飲める。と言って紙ナプキンに地図とそこに「つけMさん」

   と自署したものを呉れた。

 私はその夜、彼の言っていた場所を探してみた。成るほど荒れてはいるが千坪

近い広い敷地に、格式のありそうな母屋と渡り廊下で繋がる二つの離れがあった。

その敷地内にはその他M以外の苗字の家屋が幾つかあった。Mさんの名前はNと

あった。電話帳で調べて見たがMNの名は見出せなかった。千坪というのは過去

のことで、今は数百坪の敷地となり手入れも行き届かない様子ではあるが、満更

嘘でもなさそうに思われた。また、飲み屋も探してみた。地図の通りにその古色

蒼然とした飲み屋はあった。入ることもせず、従ってつけがきくのかも聞いてい

ない。

私がとんかつ屋を出るまでの小一時間の間、彼は何も追加注文しなかったことと

合わせ考えると懐具合が良いようには思えない。それでも過去の栄光を懐かしみ、

多少の誇張を交えて誰彼なく話して憂さを晴らしていたのであろう。格好や言動

からすると詐欺師ではとも思えるが、そのような気配は全く感じられなかった。

あれから十数年彼と接触したことはない。

ところが、先日新聞を読んでいると秋の叙勲者の中にT市のMNさんの名前を見

付けた。長年に渡る地域での交通安全啓蒙活動が評価され藍綬褒章勲七等に叙せ

られていた。あの時の本当の職業は何だったのだろうか、そしてその後の歩みは

どうだったのか真実を知りたいとの思いもあるが、これで素性もはっきりし奇妙

な思いも解消してすっきりした。ただ、等級が低いので顔写真までは掲載されて

いなかった。

(これはフィクションであり、実在する人物とは関係ありません。)

                                 以上